Blog

2020.05.29

君たちはどう生きる?僕はこうして政治家になった

ついに緊急事態宣言が解除されました。長く続いた窮屈な日々が終わると、ホッとしている人も多いと思います。多くの場所で自粛は解除されることになりますので、徐々に日常生活をみんなで取り戻していきましょう。

ただし、これからも油断は禁物です。こんなことは言いたくないのですが、コロナによる危機はしばらく続きます。悲しいかな現実です。そうなると心配なのが、経済すなわち国民の生活です。

「政治家は何をやってるんだ!こういう時こそ、出番だろう!」

今回、こう感じた人も多いと思います。その通り!!

実は、政治家がいつもデカい顔をしている国は良い国ではありません。例えば朝鮮半島の某独裁者は政治的にも物理的にもデカい顔をしてますよね。政治家が目立たないのはその国が治まっている証拠です。ただし、それは平時のこと。

有事、すなわち危機管理が必要な時こそ政治の出番です。今回は、このテーマを中心に、私が政治家を志した世代にあたる20代の人に向けて書きたいと思います。

阪神淡路大震災で社会に育ててもらった恩返し

今から25年前の1995年1月17日、大学の卒業と就職が決まり、最後の青春とばかり遊ぶ予定をバッチリと立てていたところに阪神淡路大地震が起こりました。私は京都の下宿先のテレビ画面にくぎ付けになりました。関西人にとって、あの阪神高速道路が倒壊している姿は信じがたいものでした。

「これはただごとではない!」

神戸出身の友人に頼まれて被災地に入ったのは震災から3日目。電車が通っていたのは阪急電鉄の西宮北口までです。そこから、水のタンクを背負って二人で灘区の友人の自宅を目指しました。肩に食い込むリュックの痛みはすぐに吹っ飛びました。

ガレキが散乱する道路は救援物資を運ぶ車で大渋滞。荷物を背負って歩く人たちが列をなしていました。あちらこちらからガスや蒸気が立ち込め、家屋から荷物を運び出す人たちの姿をあちらこちらで目にしました。

「戦争の時はこんな状況だったんだろうな」

そんな言葉を交わした後、我々は30キロの道のりを無言で歩きました。

友人の家に水を届けた後、軽くなったリュックを背負い一人で西宮北口を目指す道すがら考えました。私は、前年に父が会社が辞めていたため学費を免除され、生活費はバイトで賄って大学に通っていました。

せっかく国に助けてもらって大学を卒業できたのに、真面目な学生生活とはほど遠い日々を送ってきた。社会に支えられて学生生活を全うできた自分が社会に恩返しするとすれば今ではないか。私の中でスイッチが入るのを感じていました。

縁とは不思議なものだと思います。京都に戻った次の日、それまで関わっていたNGOの責任者から神戸に入れないかとの打診がありました。卒業旅行などすべての予定をキャンセルして二ヶ月間、ボランティアとして神戸で過ごすことにしました。

二月に入ると、被災者支援には続々とボランティアが集まってきました。多くの社会人もいましたが、継続して活動できるメンバーが少なくコーディネーター役を任されることになりました。

神戸で政治家になる決意をする

震災は辛い経験でしたが、ボランティア活動を通じて日本社会の素晴らしさを感じることができました。

ものが圧倒的に不足する中で救援物資の列に整然と並ぶ被災者の姿には、心を打たれました。有事に略奪が起こらない国というのは珍しいと海外メディアから指摘を受けました。東日本大震災の時もそうでした。

コーディネーターの役割の一つは、次々と入ってくるボランティアに仕事を割り振ることです。救援物資の整理など地味な作業であっても、誰一人として不満を言う人はいませんでした。日本人一人一人の資質の素晴らしさを感じました。

被災地で日を追うごとに存在感を増していったのが自衛隊でした。若い人には信じがたいことかも知れませんが、当時、自衛隊という組織はあまり日の当たる存在ではありませんでした。

行方不明者の捜索、がれきの撤去に始まり、やがては被災者への風呂のサービスの提供など、被災者のために懸命に働く自衛官の姿は感動的でした。神戸市民が自衛官を見る目が変わっていくのも印象的でした。

対照的だったのは政治に対する評価です。

自衛隊の出動がもう少し早ければもっと助かった人がいたのではないかと悔やむ被災地の人たち、兵庫県と神戸市の役割のはざまで苦しむ自治体職員からは、苦しい心情を吐露されたこともありました。日本人の個人としての資質の高さ、自衛隊に見られる組織としての強さがあるのに、政治はそれを生かて切れていない。

助けを必要としている人のために働きたい。それまで漠然と政治の世界に対して持っていた思いが、神戸の経験を経てはっきりとした目標となりました。23歳の春のことです。妻と出会ったのもあの時の神戸でした。阪神淡路大震災は私の人生を決定づけました。

ダイバーシティのある学校とテレビのない家庭

政治とは何の縁もない家庭で育った私が、政治家を目指すようになったのには、神戸での経験以外にもいくつか理由があります。

私は幼小中と田舎のミッション系の私立学校に通いました。

障がいのある同級生と同じクラスで学び、ベトナム難民と交流したり、授業中にギターでひたすら歌う先生がいたりと、ダイバーシティの巣窟のような学校生活でした。私には心地よい空間でした。

中学校でひときわ異彩を放っていたのが、ホームレス支援をしながら聖書科の教壇に立っていた奥田知志先生です。キリスト教の話を聞いた記憶なく、釜ヶ崎の日雇い労働者の実態を熱く語る姿が記憶に残っています。

高校に入ると時代はバブル真っ盛り。仕事のあふれていた大阪西成区の釜ヶ崎に友達を誘って日雇い労働に行きました。見聞きする日雇い労働者の人生は壮絶なものばかりでした。街は建設ラッシュ。彼らなしには成り立たない日本社会がそこにはありました。

家庭の影響もあったと思います。父親の口癖は、

「心頭滅却すれば火もまた涼し」と「武士は食わねど高楊枝」

小学校5年生の時、父が「お前が口を開けてテレビを見ている姿が我慢ならん」と言い放ち、テレビを捨ててしまいました。

ネットの普及した今でこそテレビの無い家庭はありますが、当時はテレビ全盛期。代表的な番組を挙げるだけでも、

バラエティの『8時だョ!全員集合』『オレたちひょうきん族』

歌番組では『ベストテン』『トップテン』

私と同世代の人なら分かると思います。全くテレビを見られないというのは、小学生にとってはかなり厳しい。

おまけに、当時ブームとなっていたゲームウォッチやファミコンも家にはなく、本と新聞だけを頼りにどうやって友達と共通の話題をつくるかを必死で考えました。

とにかく自分で考える。そして行動する

私は子どもの時から記憶力に全く自信がありません。例えばトランプの神経衰弱でまともにカードが取れたことがありません。高校も大学も受験で失敗していて戦績は2勝10敗。毎日15時間以上猛勉強を続ける浪人一人生活の末、何とか志望校のみ受かりましたが、気がついた時には体重が15キロ落ちていました。

今も周辺を見ると頭の回転や記憶力でかなわないと思う人ばかりです。唯一、自負があるのはこれと決めた時の執着心です。寝食を忘れてひたすら考え、現場を見て最善の方法を導き出す。政策も選挙もそれで乗り越えてきました。

誰もがスマホを持ち、情報があふれている時代、若い人が自分で考えることが難しくなっていると思います。ただ、これだけは覚えていてもらいたい。人生で最後に頼りになるのは自らの経験と思考です。20代の人には、何をしたいかを真剣に自らに問いかけてもらいたいと思います。

もちろん、人に相談することもあっていいと思います。ただ、相談する人を間違えないこと。

政治家になりたいというイメージを漠然と抱いていた大学時代、当時一番信頼していた友人に意見を聞いたことがあります。あの時「それは無理だろ~」と彼に笑われでもしていたら、私も「そうだよな~」とごまかしていたと思いますし、政治家を目指すことはなかったでしょう。その時、彼が即答してくれたのは大きかった。

「お前ならできるよ。豪志!」

それを聞いて、トム・ソーヤの主題歌『誰よりも遠くへ』が頭の中で流れたのを今もよく覚えています。若い人には分からないですね。マニアックな話ですみません。。

ちなみに進路の相談を最初に親にするのはおすすめしません。私の場合、5年間のサラリーマン生活を経て選挙にチャレンジすることになるのですが、父親は徹底的に反対しました。娘が生まれた直後でしたので当然と言えば当然です。

助け舟を出してくれたは義理の兄でした。

「ここまで本人が言ってるんだから、止めたら後悔すると思う。やらせてあげたらどうかな」

義兄の言葉に妻がうなずくと、父はもう何も言いませんでした。

誰から政治家になることを勧められたわけでもなく、家族からも友人からも止められ、選挙区では落下傘候補で知り合いはゼロ。選挙に必要だと言われていた『地盤(後援会)・看板(知名度)・カバン(金)』もありませんした。それでも私は政治家になりたかった。

大変な幸運に恵まれ初挑戦で国政にたどり着いたのは28歳の時でした。

パラシューター―国会をめざした落下傘候補、疾風怒涛の全記録www.amazon.co.jp

1,102(2020月11月06日 19:32 詳しくはこちら)
Amazon.co.jpで購入する

絵に描いた餅でいい。人生プランを立てる

選挙区の三島に移り住んだ当時、周りは誰も当選するとは思っていなかったようです。ただ、私は勝つつもりでいました。政治家になると決意した私は、神戸から帰った直後に『人生プラン』を立てていました。そこには具体的な目標が書かれていました。今となっては恥ずかしいので中身は伏せますが、時系列の部分の最初は以下のようになっていました。

『20代で国会議員に当選して、30代で・・、40代で・・』

これを書いた当時は政治のことは何も知りませんので、まさに『絵に描いた餅』でした。ただ、絵に描かないものは形になりようがない。不思議なもので、文字にすると真剣に考えるようになります。

目標を書くと、そこに至る具体的な課題が見えてきます。それも書きました。ノートに文字が残っていますから、努力せずに目標を達成できないと自分に恥ずかしい思いをします。

大事なことは具体的にイメージすることです。自分がどんな姿をしていて、何を話しているか。周りに誰がいて、風景はどんなものか、できる限り克明にイメージします。

もちろん、プラン通りにいくほど世の中は甘くありません。私の場合、浮き沈みの激しい政治家人生を送ってきました。何度もピンチを迎えましたが、それでも辞めなかったのは自分で選んだ道だったからです。

プラン通り行かなければ、何が間違ったのかを反省して練り直すのみです。人生プランの練り直しは、正月の神聖なる儀式になっています。

東日本大震災、原発事故に政治生命をかける

政治家になった後、最も忘れがたい経験は東日本大震災と原発事故です。

3.11の時、総理補佐官だった私は地震の直後に官邸に駆けつけました。災害とは全く違う分野の担当だったのですが、次々起こる危機的な状況の中で、担当がどうこう言っていられる状況ではありませんでした。総理から矢継ぎ早に発せられる質問や指示を整理し、原発事故に関わる政治家、官僚、専門家の間を走り回りながら事故対応に当たりました。

思い起こしたのは、やはり阪神淡路大震災の時のことでした。

「ここで逃げたら政治家になった意味がない」

3月12日、一号機の水素爆発を目にしたときは背筋が凍りました。

誰も経験したことのない国家的な危機に直面し、結果次第では政治生命を失うことになると思いましたが、腹は決まっていました。国政に身を置き10年が経過し、私はこのために政治家になったのだと感じていました。

政府の原発事故対応には、気力体力の全てを注いで取り組みました。最初の数日間で取れた睡眠は合計二時間という状況で、東電本店で会話をしているときに十数秒、言葉が出なくなり、自分自身の脳梗塞を疑いました。妻と娘の顔が頭に一瞬浮かびましたが、電話をすれば病院に行くことになり、病院に行けばそこでとどめ置かれる可能性があると思いまいした。

仮に現場を離脱することなると、その時に代わりができる人は見当たりません。

「休んでくるから、一時間たって起きてこなかったら声をかけてくれ」

秘書官にそう言い残して、東電本店の三階に用意された部屋で横になりました。一時間ちょうどで目が覚めた時、頭は冴え、手には力がみなぎっていました。この時のために自分には丈夫な体があると、気持ちを奮い立たせて仕事に戻りました。

当時の状況を後に専門医に話したところ、軽い脳梗塞になっていた可能性があると言われました。危機管理上、代わりがいないというのは望ましいことではありませんが、備えがない以上、やむをえませんでした。これは次への教訓です。

危機管理において最も難しいのは決断です。平時のように検討を先延ばしして何度も検討を重ねることができれば良いのですが、それが許されないのです。限られた時間の中で最大限の英知を集め決断し、責任は自らがとる。危機管理における政治家の仕事は突き詰めることに尽きます。

原発事故対応に続き、主に福島県内の除染、岩手・宮城のガレキの広域処理、大飯原発の再稼働など、次から次への難題が持ち上がってきました。どれも初めての事態で、他省や地方に任せる手もありましたが、原発事故担当と環境大臣を兼務することになった私のところで全て引き受けることにしました。振り返ると環境省は本当に大変だったと思いますが、あの時は逃げるわけにはいきませんでした。

東日本大震災と原発事故については、改めて書きたいと思います。

尖閣諸島沖の漁船衝突事故について初めて語る

民主党政権の最大の課題は外交安保にありました。政権交代直後、普天間基地問題の迷走で外交の基軸である日米関係が揺らぎました。日米同盟の動揺は日中関係にも影響します。特に尖閣諸島をめぐる問題に的確に対応することができませんでした。

2010年に尖閣諸島沖で起こった漁船衝突事故の際、官邸からの指示で中国との交渉を担うことになりました。これまで語ってきませんでしたが、あれから10年の時間が経過し、尖閣諸島への中国の圧力はここへ来て益々高まっていますので、ここで経緯を説明したいと思います。仙谷元官房長官はすでにお亡くなっていますが、生前に私の訪中が官邸の要請であったことは明らかにしておられます。

当時、民主党では代表選挙が行われた直後で、私は政府に入っていませんでした。いわゆる『無役』というやつです。当時の仙谷由人官房長官から要請を受けての訪中でしたが、非正規の外交ルートですので個人的な訪中とするしかありませんでした。

状況は最悪でした。私がこの問題に関わった時点ですでに海上保安庁の船に体当たりした船長は釈放されていました。中国からの圧力と厳しい国民世論のはざまで行われた政府の判断でした。個人的にはこの判断に不満でしたが、外交交渉ではその時点からベストの状況を目指すしかありません。

一方で、わが国の建設会社の社員が別件で拘留され、解放のめどはたっていませんでした。国民を守るのが最大の政治の役割ですので、私の頭の中ではこの問題が大きな位置を占めていました。

個人の立場で中国に行って交渉に失敗したら政治生命が危ういと思いましたが、何としても対話の窓口を開く必要がありました。国益を考えれば誰かがやるしかありません。

日中関係は極度に緊張しており決死の訪中でした

北京空港に着くと中国政府の外交部の車が用意され、交渉場所として案内されたのは釣魚台でした。ここに入ると、仙谷官房長官に電話することも難しくなります。交渉相手は外交のトップであった戴秉国国務委員です。圧倒的アウェーの中での交渉がスタートしました。厳しい状況になると、不思議なもので肝が据わります。

「漁船衝突場面の録音テープの公開をしないでほしい」

中国側の要求は厳しいものでしたが、日本の国会は衆参で捻じれており、情報公開も進んでいるので無理だと突っぱねました。7時間の交渉の末、何とか建設会社の社員の解放を約束させ、仙谷官房長官と戴秉国国務委員のホットラインをつなぐこともできました。

民主党政権で私が痛感したのは、外交安保は現実主義に立たない限り国民が不幸になるということです。同じことを絶対に繰り返してはならないと思いました。

野党を離れた理由は安全保障。大きな岐路に立つ

私が政治を志した時期は、自民党が分裂し、日本新党などの新たな政党が誕生した時期と重なります。1990年代の後半になると、そうした流れをつくった政治家の多くが民主党に集まりました。

政治家として初当選以来、次の三つの理念を大切にしてきました。私は、民主党がそれを実現できる政党だと考えていました。

① 内政は弱い者の立場に立つ
② 多様性(ダイバーシティ)を大切にする
③ 外交安保は現実主義に立つ

20年前、私が入党した当時の民主党には、羽田孜先生、渡部恒三先生ら保守二大政党を体現する幹部がおられた。ある大先輩に懸念をぶつけたところ「二大政党の時代において、野党の政策は与党と8割同じで良い。ましてや外交安保は同じであることが望ましい」との答えが返ってきて、安心したものです。

2002年から2003年にかけて小泉政権の時代に有事法制が議論されました。

安全保障を巡る民主党内議論の中で何とか党内の反対論を抑え込み、自公民の三党で法律を成立させることができました。1993年から始まった二大政党の流れは、未成熟ではありましたがかたちになりました。

曲がり角は再び野党になった後の2015年の安保国会でした。当時、私は民主党の政調会長でした。不十分とはいえ民主党案ができたのですが、国会に法案を提出することができませんでした。

「法案を国会に提出した上で安倍総理と党首会談をやるべきだ」

民主党の役員会で何度も主張しましたが、賛同者はいませんでした。あの国会は痛恨の記憶として残っています。

そこから共産党も含めた野党の共闘が始まりました。すでに羽田先生や渡部先生の姿は国会にはなく、私が入党した当時の民主党の面影はありません。非自民の枠組みで現実主義的な安全保障政策を実行することは困難であり、外交安保で国を揺るがす政権交代は国民にとって望ましい選択ではありません。

学生時代、有志の勉強会で共産党の人とはずいぶん議論しました。個人としては魅力的な人もいたが、国家そして自衛隊に対する考え方で正面から衝突しました。高校生の時に安岡正篤先生の思想と出会い東洋哲学に触れてきた私の思想は、そうした考え方と相いれないのです。

政治信念を貫くためには、残された選択肢は二つ。

政治家を辞めるか、自民党入りを目指すか

初めて選挙に挑戦したからご縁を頂いた人たち、既にお亡くなりになった方を含め、多くの方々の顔が頭に浮かんでは、思考が行きつ戻りつを繰り返し、決断には時間がかかりました。

国会での孤立は避けられないでしょう。激しい逆風にさらされる選挙も覚悟しなければなりません。しかし、政治家として信念に基づいて使命を果たすためには、この道しかないとの結論に至りました。

コロナ禍における国民の頑張りに政治が応える時。若者のチャンスを奪ってはならない

これまで書いてきた通り、危機管理こそ政治家の最大の仕事です。最後に、目の前にある危機である新型コロナウイルスに触れたいと思います。

各国が外出制限など強制的な手法を採用する中で、日本は国民の自主性を重んじる『日本モデル』を貫いてきました。海外メディアの悲観的な見方に反し、医療関係者の奮闘と、自粛に協力してきた国民の辛抱によって、緊急事態宣言の解除までたどり着きました。

周りに配慮して自らを律する姿は、東日本大震災や阪神淡路大震災で悲惨な状況にあっても、救援物資の列に整然と並ぶ被災者の姿や、自らの役割を全うするボランティアの姿とも重なります。特に若い人たちは、ここまでよく我慢してきたと思います。誇るべき成果です。

今度は、国民の行動に政治が応える番です。このままでは多くの国民が生活の糧を失うことになります。特に、経済の大きな落ち込みは若者のチャンスを奪います。就職氷河期世代にあたる私は、同世代に経済的に苦労している人たちを数多く見てきました。

経済有事が現実となった今、必要なのは第一に大胆な金融政策です。金融緩和なき財政出動は円高のリスクもあります。すでに日銀は中小企業への資金繰り支援に乗り出していますが、マイナス金利貸し出しまで踏み込むべきでしょう。これから発行される劣後債、地方債の日銀買い取りも重要な金融緩和の手段です。

大規模な財政出動も欠かせません。財源は赤字国債を発行する以外ありません。しかし日銀と財務省には国債で軍事費を調達したトラウマがあり、国民の中にも『国債はいつか耳を揃えて返さなければならない』という誤解があります。まずは二次補正予算を早期に成立させて、必要な人に支援を届けなければなりません。

金利と物価を管理しながら国債を安定的に発行するのは政府の役割であり、わが国ではそれが可能です。

人物を養い、危機に強い政治家を目指す

危機管理の重要性を書いてきましたが、人物を養うことなくして危機に対応することはできません。安岡正篤先生は、代表的著作である『経世瑣言』の中で人物を養い方として次のことを述べておられます。肝に命じたいと思います。

あらゆる人生の経験を嘗め尽くすことであります。人生の辛苦艱難、喜怒哀楽、利害得失、栄枯盛衰、そういう人生の事実、生活を勇敢に体験することです。

初当選から来月で20年。まさに光陰矢のごとし。私の人生そのものも、政治家人生も後半戦に入りました。悔いなき日々を生きようと思います。

公式SNS

PAGETOP