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2022.09.28

私がカルト被害防止・救済法案に賛成できない理由

 安倍晋三元総理の国葬儀が終わった。伊藤博文を失った山縣有朋が詠んだ歌を最後に引用した菅義偉前総理の弔辞が強烈な印象を残した。万感の思いがこもった言葉に自然と拍手が沸き上がった。

 

かたりあひて 尽くしし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ

 

 怒涛のような旧統一教会の報道の中で悶々としてきたが、一つの区切りを迎えて書くことにする。臨時国会を前に野党からカルト被害防止法・救済法案を提出する動きがある。旧統一教会に問題があるのは間違いないし、自民党に入ったばかりの私が個人的な見解を表明できる立場ではないのは百も承知しているが、現時点で私はこの法案に賛成することができない。

 テロリズムで旧統一教会に注目が集まるのは男の思惑通りだろう。対照的にテロリズムで命を落とした安倍晋三元総理が旧統一教会との関係で批判に晒される状況は控えめに言って倒錯している。

 マスコミの責任は重い。最たるものがテロリストをモデルとする映画を報じた新聞社があったことだ。選挙戦の演説中に政治家を暗殺する行為は言論封殺そのものだ。暴力がメディアを含めた言論空間に及ぶことも考えられる。この時期に元テロリストが製作した映画を告知するマスコミの見識を疑う。

 20年以上この世界に身を置き、マスコミ報道の嵐を前に賢明な政治家が取るべき立場は「沈黙」であることは承知している。しかし、政治家には時に世論に反してでも言わなければならないことがある。批判は覚悟の上だ。

 

旧統一教会と私は政治的な立場が異なる

 

 念のため旧統一教会と私の関係を記す。数年前に地元の地方議員の集会に来ていた統一教会の関係者から面会を求められたが、大学時代に学内での統一教会の活動に強い違和感を覚えた記憶が鮮明だったため断った。その後は一切接点はなく選挙応援を受けたこともない。

 いくつかのメディアで個人献金を旧統一教会関係者から受けたと報道されたが、憲法19条に規定された「思想・良心の自由」に踏み込んで個人の宗教を確認したことはないし、これからもするつもりはない。関係団体からの献金はない。

 私は長年、LGBT当事者の人権の問題に取り組んでおり、一貫して法整備が必要だという立場を貫いてきた。選択制夫婦別姓の導入にも賛成だ。政治的な立場を全く異にする旧統一教会を擁護することはない。

 

暗殺者によるテロリズム

 

 歴史を振り返るとテロリズムは連鎖してきた。1921年、安田善次郎の暗殺に同情が広がり直後に原敬が暗殺された。五一五の後のニニ六も然り。その後、わが国はどうなったか。歴史はテロリズムを擁護することの恐ろしさを証明している。

 「安倍晋三元総理への銃撃は動機が政治的なものではなく統一教会への恨みという個人的なものなのでテロリズムでもないし、民主主義の危機ではない」という言説もあるが同意できない。

 安倍元総理は選挙戦の最終盤の街頭演説中に凶弾に倒れた。安倍元総理はあの銃撃事件がなければ選挙中はもちろん、今後も発言力を持ち続けただろう。その道を暴力によって閉ざす行為は動機がいかなるものであれ言論封殺であり、その行為はテロリズム以外の何ものでもない。

 政治活動に対する委縮効果も軽視するべきではない。実際に銃撃事件のあった7月8日はほとんどの政党・政治家が街頭演説を自粛することになった。次の日には街頭演説は再開されたが、個人的には自粛の判断に違和感があった。政治家はこういう時にこそテロリズムに屈せず街頭に立つべきだ。

 選挙は民主主義の根幹をなすプロセスだ。我々政治家は選挙戦中に限らず多くの人の前で演説し、大小の対話集会を繰り返し行う。これは政治家としての本分だ。今回の銃撃事件は民主主義の根幹たる選挙をリスクに晒したのだ。

 政治家が関わる予算や法律は必ず誰かに利益を与える一方で誰かに負担を強いることも少なくない。男は統一教会によって生活危機に陥ったとされているが、政治家の決断によって生活の危機に陥る国民もいる。政治家の決断に対する評価は議会政治や選挙を通じて受けるべきだが、今回の事件はこの国でそうでない方法で意思を表明できることを世に知らしめたのだ。

 最大の問題は「テロリズムの結果として男が何を得たか」だ。

 

国家として優先すべきはテロリズムを繰り返さないこと

 

 政治家になって最も難しいと感じるのは、国民(個人)と国家のバランスだ。例えば「財政的な制約がある中で社会保障を優先するか安全保障を優先するか」「情報公開は大切だが国家機密は秘匿しなければならない」など、あらゆる政策が国民と国家のバランスの上で決まってくる。国家無くして国民の幸福も安寧もない。他方、国民を軽視した国家は危険だ。この局面で国家がなすべきことは何か。

 男と同様に今もカルト被害に苦しむ国民はいるだろう。政治が彼らに目を向けるべきだという主張を否定するつもりはない。熟慮を要するのは、テロ行為(テロリストの思惑)を端緒として旧統一教会に関する立法を行うことが国家として正しいかどうかの判断だ。

 血を流さずに世の中を変えられる「民主主義」を人類史において先人達は勝ち取ってきた。日本は先進国の中でも暴力のない稀な民主主義国に成長したが、ついに血が流れてしまった。暴力で世の中を変えられるという先例を世論の後押しで作ることが、積み上げてきたものを崩すことにならないか。

 万が一、再びわが国で政治家に対するテロリズムが起こればわが国の民主主義は瓦解し、国際的な信頼も地に落ちる。そんな国家が国民を幸せにすることができるはずがない。この局面で最も優先すべきは二度とテロリズムを起こさないという国家の危機管理だと考える。

 テロリズムの連鎖を止めるために、警察による警護体制の強化と拳銃や弾の作り方をネットで調べることができる環境を早急に改めなければならない。政府も検討を始めているが、超党派の議員で具体的な検討も開始した。政府の検討を後ろからサポートすることで結論を急ぎたい。立法が急がれるとしたらこちらだろう。

 政府はすでに霊感商法などの被害者救済の電話相談を行うなどの対応をしている。被害者に最大限寄り添って、既存の消費者保護制度を厳格に適用することで個別救済を最大限行うべきだ。

 

テロリストに何も与えてはならない

 

 ニュージーランドのアーダーン首相は「(テロリスト)の男には何も与えない。名前もだ」と断じた。わが国はどうか。巷にはテロリストに同情する声が少なくないことに危機感を持つ。人は誰しも事情を抱えて生きている。どのような動機や背景があったとしても私は男に同情しないし、名前を呼ぶつもりもない。わが国の民主主義を危機に追いやった男が受けるべきは法に基づく厳罰のみだ。

 仮に左派の政治家がテロにあったとしても私は全く同じことを言う。いかなる理由や背景があったとしてもそのテロリストに同情することはない。右か左かが問題なのではない。民主主義を守ることが大切なのだ。わが国は男を「成功したテロリスト」にしては絶対にならない。

 男はテロリズムによって旧統一教会の問題を社会に知らしめた。彼の試みはマスコミの連日の報道によってすでに成果を出したのだ。政治がマスコミや世論に押される形でカルト被害防止・救済法案を作ることは、テロリストに「望外のギフト」をプレゼントすることになる。日本は「テロリズムによって社会を変えることができる事実」を国内外の危うい思想や思惑を持つテロリスト予備軍に示すことになる。それが次なるテロにつながらないという保証はない。

 そのようなことが起こった時、わが国は深刻なダメージを受けることになる。私はそのことを強く危惧する。

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